居場所支援の事例

日なたを利用したA君

 A君の様子を教科指導担当者に語っていただきました。

 令和4年12月15日、いつものように時間正確にさわやかなあいさつとともに教室に入ってきたA君は、いつものように「お願いします」とノートを差し出した。「すごいね、こんなにたくさんの問題を解いたんだ」「問題を解いていたら楽しくなっちゃって、止まらなくなったんです」「こりゃあ数学が『数が苦』から『数楽』になったね」。字を書きながら説明すると、A君はうれしそうにうなずいた。

 学校に行かない時期が続いていたA君も中学3年生になり「学習しないといけない」と思ったそうだ。ぱーむぼいすの学習支援を始めて、受験したい高校が具体的になり、学習へと気持ちが向いていった。今まで止めていた時間が一気に動き出した、そんなタイミングで「日なた」が開室した。

 7月に初めて顔を合わせた時は「数学が分かりません。ずっと勉強してないんです」と、自信なさそうに小さな声で言ったA君。自己紹介の後、平方根の学習をパズル的に行った。楽しそうに集中して解く。線は細いが素直でまじめで優しい。だが、自分に自信が持てず、人との関わりがあまり得意でないようだ。本人の希望で翌日も1時間の学習をした。有限小数の問題を楽しそうに解く。何度も「へえ~、なるほど」と言っていたのが印象的だった。

 それから週に1~2回の学習が始まった。時間正確に教室に来て、1時間集中して学習し、出された宿題もきちんとやってくるので、すごいスピードで学習は進んだ。中2や中1の内容に戻りながら、数と計算だけでなく図形や関数なども喜んで学習した。問題集を解いて、自分で丸付けする習慣もできてきた。そして、約半年で中学校の内容をおおよそ終わらせた。

 学習の間の会話もはずむようになった。北信五岳の“まみくとい”を覚えたり、新聞のナンプレを解いたり、日本の地図を見ていろいろな話をした。流星群と星座、国内外の旅行、ウクライナ、SDGs……。A君はいろいろなことに興味を示し、そして興味の幅も広げていった。そんな中で、自然な形で進学の話、職業の話もするようになった。

 この間、相談担当者が学校と連絡を密に取り、A君の様子は常に伝えていた。ここからは学校との連携が必要だ。入試を突破できても、通うことや一日を学校で過ごす力(体力)、自分の気持ちを伝える力、人と関わる力(コミュニケーション力)が求められるからだ。まずは学校の先生や友だちとの関係づくり、そして学校という場所に慣れていくことが必要になる。そんな準備を重ね、放課後登校、テストを受けること、仲の良い友だちとの時間……。高校生になりたいという強い気持ち、それを応援する家族の存在が彼の挑戦を後押しした。

 今、A君は、自分で選んだ高校に合格し、4月からの高校生活に胸を膨らませている。「出ない」と言っていた卒業式にも皆と参列し、卒業証書を受け取り、中学校の思い出を一つ増やした。A君の15歳の春は、A君らしく満開になったように思う。


不登校だったT君の成長

不登校だったT君が居場所支援を利用して自立するまでの思いを、親と本人に語ってもらいました。

①母の思い(2011年12月)

高校1年生の2学期が始まったと同時に、息子は学校へ行かなくなりました。理由も分からず月日が流れていくばかりで、無理矢理車に乗せ学校へと向かう途中、吐き気を訴えるなど身体にも異変が現れてきました。親子共ただ追い詰められていくだけの日々でした。本当に、本当に苦しかった。

 

そんな中、新聞の記事でぱーむぼいすの存在を知りました。「待たせません」のモットーのとおり、連絡をしてすぐに清水さんに会って相談ができました。「一緒に考えていきましょう」の清水さんの一言が本当に嬉しかったです。追い詰められていた私たち親子がぱーむぼいすに繋がった日です。

 

ですが、息子がずっと抱えてきた悩みや苦しみを知り、それを理解しそのまま受け止めるということは、思った以上に大変なことでした。時にはぶつかり合い、泣きました。でも、私自身の意識を全て変える必要があることも分かってきました。居場所支援を通じて知り合った仲間やその家族、大らかな理事長、ユーモアがあって褒め上手な清水さん、そんな方々のお陰で息子は動きだし、通信制高校へ転学しました。

 

居場所支援の月1回の親と子の会で、息子はいつも調理担当です。少しずつ包丁さばきも様になってきて、またそれをみんなが褒めてくれるので、満更でもない様子です。今日は夕ご飯の支度を手伝ってくれました。となりに並んで調理する息子に「ぱーむぼいすはどう?」と聞くと「そんなの僕を見ていればわかるでしょ」と照れながら「充実しているかな」と一言。笑顔が増えた息子と、これからもゆっくり進んでいこうと思っています。

 


②T君の思い(2012年6月)

るのを待っていただけである。私自身もこんな生活は限界だった。しかし、それを変えるきっかけもなく、ただ寂寞たる思いを抱えていた。

私の1日は朝7時から始まる。8時までに学校へ行き、真面目に授業を受け、午後には部活に打ち込む。そうした平凡な毎日を送っていた…はずだった。どれほどの時間が経ったのだろう。私は毎日が孤独であった。その生活は嫌ではなかった。むしろ、この現実を「幸せ」と受け止めていた己がいたのである。

 

思い返すと、高校受験というものはストレスの塊だった。進路で友だちと決別することに悩み、親父の入院、自分自身の体調不良…もう限界だった。高校へ入学して、中学と違った環境に全く慣れなかった。何もかもが嫌だった。半年も経たないうちに学校を休むようになった。毎日先生から電話がかかってくるが、それすら雑音になっていた。家で読書やゲームをして、ただただ1日が過ぎ

 

ぱーむぼいすとの出会いは母の紹介であった。「話だけでも聞いてみないか?」と言われ、不安ではあったが話くらいならよいかと、行ってみることにした。初対面で緊張していた私だが、理事長と清水さんにこれまでに心の中にあった全てのことを伝えることができた。彼らは迷っていた私に進む「道」を与えてくれた。それが一番嬉しかったのである。何もやることがなく、家でごろごろして過ごしていた私に、里芋掘りの仕事を与えてくれ、週3日畑に通ったこともあった。高校も長野の通信制高校へ転入した。

私は毎週土曜日にぱーむぼいすに来ている。私と同じように、毎週ここに通う仲間がいる。その仲間たちと農作業や雪掘り、昼食作りなどいろいろな体験をして楽しく過ごしている。こういう体験は今までの生活をしていたらできなかったことだ。今はとても充実している。

 

③母の思い(2017年2月)

今思い返しても、息子が高校へ行けなくなった頃が親子共々一番苦しい時期でした。それがぱーむぼいすに出会ってから、少しずつ暗い部屋から明るい外へと踏み出していけたように思います。

 

マイペースながらも長野の通信制高校を卒業した息子は、専門学校へと進みました。専門学校では友達もでき、クラスのムードメーカーとして充実した学生生活を送ることができました。そこで取得した資格を元に就職し、今は県外でひとり暮らしをし、仕事をしています。

 

ぱーむぼいすの支援は子どもだけではありません。親に対しての相談はもちろん、同じ悩みを持つ親同士の交流(おやけん)、親子での活動やイベントへの参加など、数多くありました。そんな活動の中で他の参加者から、親としての思いや苦労、工夫など、さまざまな情報をもらうことができました。どんな時でもいくつもの選択肢がある。ひとりでは知り得ない情報が心強く、その度に相談しながら考えました。簡単ではなかったからこそ、今は働く息子の姿が嬉しくて仕方ありません。あの夏から6年が過ぎました。


T君の略歴

2011  公立高校入学も2学期から不登校

    ぱーむぼいすの居場所支援に参加

    通信制高校へ転入

2014  高校卒業 専門学校へ進学

2016  専門学校卒業 就職(ひとり暮らしを始める)